映画は繰り返し観るほどに自分を映す鏡へ

makugashiorin

 

会社の後輩(しおりんを崇拝する女)がついに一線を越えました。
抱き枕がどうのこうの。

 

このBlog、本や映画や展覧会の感想やら、広告の話やら、日々の出来事やらをだらだらとつづる日記だったのが、ここへ来てすっかり『幕が上がる』宣伝Blogと化しました。もう4回観ました。と言っても会社の後輩や夏菜子推しのディベロッパーさんは6枚とか10枚とか前売りチケットを持ってるので、僕なんてただの平社員です。

 

そんな“一線を越えた”ノフ社員の後輩とレイトショーの映画館を出て、劇中に主人公「さおり」たち演劇部が見上げる新宿西口の高層ビル群まで歩きました。てっぺん越えてたからか、映画のような煌めく摩天楼ではなかったけれど、この映画がすでに日常に組み込まれている今の日々を実感。それはなかなか特殊な体験で、仕事帰りに観る度に(と言ってもその見方はまだ2回だけど)自分の人生や将来像に照らし合わせて考え込んでしまいます。

 

ここからはネタバレありで書きます。

 

映画に限らずあらゆる「物語」に出てくる登場人物たちは何か「困難」にぶち当たって、それをどう「解決」あるいは「納得」していくか?という「成長」を見せてくれるものですが、でも成長の手前から圧倒的な能力をすでに持ってんじゃん、と思わせる「実力」が彼らには備わっていることが多いです。

たとえば吉岡先生は「学生演劇の女王」と呼ばれていたほどの圧倒的実力者。だから東京の劇団から嘱望され、先へと進められる。弱小演劇部の「さおり」(夏菜子)たちは経験も実力も乏しかったはずだけど、先生の指導や強豪校からの転校生「中西さん」(杏果)との出会いをきっかけにどんどん上手くなっていく。

原作ではこんな描写があります。

「演技なんて、そんなに上手くならないよ」
というのが吉岡先生の口癖だった。だから構成とか、一人ひとりの個性を生かす方が大事なんだと言う。たしかにアドリブは、上手い子はとにかく上手いし、下手な子は何度やっても、やっぱりなかなか上達しない。でも構成を考えながら進めていって、あと吉岡先生のアドバイスを受けると、一年生でもなんだかそれらしく見えてくる。演技が取り立てて上手くなったわけじゃないけど、役がはまるって感じかな。でも、それで自信がつくと、一年生とかは本当に伸びる、ぐんぐん。

(原作より)

そう、実はみんなそれなりにポテンシャルは持っている。

その力を自ら実感できるようになってきてチームワークも高まっていくシーンが美しく清々しいのですが、4回も観てると

「自分は吉岡先生みたいに誰かに喉から手が出るほど欲してもらえる日が来るんだろうか

とか

「そこまで望まれるほどの人間にならんと自分が行きたいところへも行けないよなぁ」

とか

「さおりの周囲と寄り添う丁寧な演技指導は時間がかかる方法だけど理想的だなぁ。彼女は演出家の能力を持ってたんだなぁ。つまり観察力が鋭敏な子なんだな。それを見抜いた吉岡先生もまた観察力の長けた人だなぁ」

「俺にその能力はあるか?」

とかとか、作品と自分自身とを反復させながら観るようになって、そうやって身につまされていく(あーツライ!)先にれにちゃん演じる「がるる」の安心感・・・・。もうおっさんなので、自己投影すべきは高校生たちじゃなくて吉岡先生なのですが。

 

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この映画はいつの間にか自分を映す鏡になっていました。スクリーンで輝く彼女たちに比べれば小さな「等身大の自分」に帰ったとき、ちょっと熱くなっている自分に気づきます。

「私たちは、舞台の上でならどこまでも行ける。」

僕は僕の舞台で、宇宙の端まで行ける力をつけねば。

 

(c) 平田オリザ・講談社 / フジテレビジョン 東映 ROBOT 電通 講談社 パルコ


投稿者: tacrow

伊藤 拓郎 / Takuro ITO (April 12, 1980~) 2006年 武蔵野美術大学 造形学部映像学科卒業。デジタル系広告制作会社を経て、2017年〜広告会社にてデジタル・プランナー/コミュニケーション・プランナー職