そういえば、
父方は商売、母方は教育の家系で、
ぼくの母方の祖父母は国語教師でした。
そんなことをふと思い出しました。
母方の祖父は今のぼくと同じ年頃に
第二次大戦でシベリアに抑留され、ソ連軍のもと
樹の根っこや少しばかりの芋を食べながら生き抜き、
極限状態で日本に帰ってきたそうです。
もちろん、こんな一言で片付く出来事ではなかったはず。
ですが、今となってはあまり詳しい話は聞かせてくれません。
多くの友を亡くし、もう戦争映画ですら見たくないと言います。
60年前に死別した友人の名前や性格を覚えていることに驚きます。
同じ高校(旧制中学)の人は日本で最初の特攻隊員だったそう。
敗戦に伴い帰国。
祖父は寺の坊さんと教師の二足のわらじを履き、
紅白歌合戦の審査員をやったり、市長のゴーストライターをやったり、
戦時とは打って変わって“文化功労者”として生きてきた人です。
そんな一切を知らずに寺の孫に生まれたぼくと弟は、
庭で除夜の鐘を突いたり、閻魔さまの絵や地獄絵図を見て泣いたり、
寺の華美な装飾に触れながら墓場でかくれんぼしたり。
今になって、あの環境のありがたさを感じます。
父方の祖父母の家は庭が工場だったので、
クレーン車やショベルカーの下でかくれんぼをして遊びました。
自然に包まれた寺と、機械に囲まれた工場が幼少期のぼくを形成しています。
何もないゼロ地点から、どちらも
個人の力で家族と仕事を築いてきた人たちです。
きっと周囲の協力も並大抵ではないかと思いますが、
好きなことで環境を造り上げていったところがカッコイイ。
未だに、ぼくは二人の祖父に憧れを抱きます。