デジタルカメラで撮られた画像が、そこかしこのWeb Siteでアップされてゆく。
これらの画像は、はたして写真なのだろうか。
紙媒体に変換されるわけでもなく、その僅かな命をまっとうするだけの画像たち。
そこには確かに、よく小林先生が言う「はかなさ」がある。
しかし、問題はこれらの画像が写真であるか否かではない。
そんなことはもっと偉い評論家が考えればいい。
では、ぼくにとっての問題はどこにあるのか。
端的にいうと、デジカメの画像は誰のものか?
デジカメ写真におけるアイデンティティ。
親友Kのサイトはほぼ毎日更新されている。
その日撮られた「写真」が、ボコボコとアップされゆく様は、見ていて気持ちのいいものである。
が、それを見ていた別の友人が、こんなことを漏らした。
「どれも一緒に見えるね、他のデジタルで発表してる人たちと」
…確かにそうかもしれない。
この現象は、何もKに限ったことではない。
たかだか300〜400万画素のデジタルカメラは、フィルムと違い、色味の癖であるとか、質感の違いを表すほどの幅を持たない。幅のない写真。
それ故に、風景、人物を選んで撮ったところで、どれもある程度似たものになってしまう。
しかし、ぼくはこのデジカメの幅のなさが好きだ。
妙な私的情緒を排除してくれるし、写真とはただのコピーであることを教えてくれるからだ。
コピーはそれ以上でもそれ以下でもない。
他人といくら似ていようが、そんなことは承知の上なのだ。
その視点に立ったところから、違いも浮き彫りになってくる。
人の生活なんてどれも大差ないと思えることがある。
とはいえ、その視点は千差万別である。
だから、Kの写真は誰に似ていても構わない。
似ていても「同じ」にはなり得ないし、銀塩にありがちな嘘の個性を押し付けられるよりは潔い。
銀塩を否定はしない。
現に今日もペンタックス67で撮影してきたばかり。
ただ、デジタルのあり方も、もう少し認めてもいいんじゃないか。
オリジナルという概念の持たない、デジタルの自由で儚い命を、ウェブが紡いでいく。
やってみると、この相性は思ったよりいいみたいだ。